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「私だって障がい者を産みたかったわけじゃない」中学時代に投げられた母からの言葉【後編】

障がい

この記事はこちらの記事の続きになります。

 

どんな時も必死に支えてくれた家族、周りの人たち

私の障がいは別記事でご紹介している通り、「脊椎骨端異形成症せきつい こったん いけいせいしょう」という障がいです。

本来であればこの病気は、子供がお腹の中にいる時点で判明するものです。

しかし私の場合は、医師から母に対し、「子供が病気であること」を伝えられませんでした。

見落としなのか、医療的な技術不足が原因だったのかは今となっては分かりません。

少なくとも両親は、「健康な子供が産まれてくる」 そう信じていました。

初めての娘が産まれる。

一体どんな未来を描いていたのでしょうか。

少なくとも、両親とも「まさか自分が障がいのある子どもの親になる」とは思ってもいませんでした。

ベビー服やおもちゃを買って。産まれたての子供を撮影するためのビデオカメラを買って。

しかし、20代のある日突然、自分たちの思い描いていたものが一気に崩れ落ちました。

 

私だったらきっと受け入れきれないと思います。

それでも両親は必死に私を育ててくれました。

小学校に入学するとき、両親は私に聞きました。

「特別支援学校と普通の公立校どっちに通いたい?」

障がいのある子どもが普通の公立校に通うなど、当時、私の地元では前例がありませんでした。

それでも、私が「お友達と同じ小学校に行きたい」と答えると、その気持ちを叶えるために一生懸命学校に何度も頭を下げて入学許可を貰ってくれました。

普通の障がいの無い子供であれば、当たり前に入学できる普通の公立小学校なのに。

「『挨拶、ありがとう、ごめんね』この3つはきちんとしなさい。そうすればきっとみんな味方になってくれるよ」 両親には何度も何度も聞かされました。

「親の付き添いがなければ学校行事には参加されられない」と学校側に言われれば、遠足、校外学習、修学旅行など、全ての行事に私が参加できるよう、仕事の合間を縫って付き添ってくれました。

中学の制服や学校指定のジャージもサイズが合わないため、自腹で高い料金を払いながらもオーダーメイドで作ってくれました。
(ちなみにその後も、高校の制服、ジャージ、スーツなど全てオーダーで作ってくれました)

学校側も、徐々に両親の思いをくみ取って、私を受け入れてくれるようになりました。

学校では、それまで障がい者の受け入れが一切なかった中で、私をほかの児童と一緒の学級に通わせてくれました。
(今となればハードルは低いのかもしれませんが、当時は物凄く大変なことでした)

踏み台を用意してくれ、机もサイズが合わないため小さいサイズを用意してくれました。

友達も、はじめは面白がって「どうして小さいの?」などと聞きましたが、いつしかみんなが私を普通のクラスメイトとして扱い、普通に学校内外関わらず遊んでくれました。
中には、今でも友人で居てくれる子も沢山います。

公立校に通うため、もしかしたら市の職員さんも動いてくれたのかもしれません。

 

私が今までの人生で一度もイジメを受けたことがありません。

それは、こうした友達、学校など様々な方に、私の見えるところ、見えないところで支えられてきたからなのだと、今となれば理解できます。

そして、その「普通に周りの子と同じように学んで、遊んで、大人になれる」

そんな環境を作ってくれたのは、まぎれもなく家族でした。

 

反抗期と反省

さて、反抗期の話に戻ります。

※ この記事です。

今の自分があるのは、確実に家族と、周囲の人たちのおかげです。

こういった話をすると、時に「本人の頑張りの成果だよ!」と言われます。

そのようにおっしゃっていただけること自体は大変ありがたいのですが、

しかし、本人が頑張れる環境が「障がい者」というだけで失われていることも十分にあります。

 

それなのに、私から母に放った言葉が「なんで障がい者に産んだんだ」だったわけでございます。

今となれば本当に反省しています。

それでも見捨てず、ここまで一生懸命育ててくれた両親には本当に頭が上がりません。

 

たまに「そんなに捻くれていたのに、どうやって反抗期から抜け出したの?」と聞かれます。
(捻くれているのは今もですが笑)

色々要因はありますが、一番は父から「私が産まれた夜の話」を聞かされたことです。

私が産まれた日の夜、母はずっとずっと泣いていたそうです。

私に向かって「健康に産んであげられなくてごめんね」と。

そして、父にむかって言ったそうです。「二人で頑張ってこの子を幸せに育てていこう」と。

 

「母」と「私」は『 別の人間 』

私が産まれた日の夜、一体どれほどの思いを両親が抱えていたのか、私には想像もできません。

思春期の真っただ中、母からの「私だって障がい者を産みたかったわけじゃない」この言葉を聞いたとき、ショックだったのは事実です。

しかし、この時期に苦しかったのは本当に私だけだったのでしょうか。

私が苦しかったように、家族だって先の見えない治療が何年も続き、とにかく苦しかったはずです。

子供は「普通の人生」を歩みたがっているのに、それもなかなか難しいのは目に見えている。

私には健常者の妹がいます。妹が私の身長を抜かすとき、一体どんな気持ちだったでしょうか。

自分の子供が半年に一度治療のために背中を切り開かれて、苦しくない親がいるでしょうか。

障がい者の親は「突然変わってしまった自分の人生」や「あらゆる理不尽」を全て受け入れることが当たり前なのでしょうか。

 

思春期当時の私は、心の中で「親が私を幸せにしてくれることが当たり前だ」と思っていました。

そのうえ、プライドだけはあったので、「私はひとりの人間なんだから、口出ししないでくれ」とも思っていました。

しかし、私がひとりの人間であることと同じで、親もひとりの人間です。

言って良い言葉かどうかは置いておいて、「私だって障がい者を産みたかったわけじゃない」というのは紛れもなく本当の気持ちだったのだと思います。

本当に限界に追い詰められた一人の母親が、つい言葉にしてしまったのでしょう。

私と母はずっと二人三脚でやってきました。

だからこそ、「母と私は別の人間なんだ」というごく当たり前のことを忘れつつありました。

でも、反抗期にしっかりと別の人間で、相手にもきちんと感情があるということを理解できたからこそ、苦しさから抜け出せたのだと思います。

 

追記)今思えば、「私だって障がい者を産みたかったわけじゃない」という言葉は、「健康な子に産んであげたかった」という意味だったんだろうなぁなんて、母の素振りを見ていると思います。

 

私は本当に「ひとり」だったのか。

反抗期当時の私は「誰も味方はいない」そう思っていました。

でも、本当に誰も味方がいなかったのでしょうか。

治療のため学校を休みがちだった私に、友達は手紙を書いて、お見舞いにも来てくれました。

25年近く友人で居てくれる幼馴染(親友) もいます。

学校も、少しでも授業についてこられるよう、できる限りのサポートをしてくれていたと思います。

障がい者が一度も通ったことのない学校で、私がいじめられることなく、友達と同じ空間で時間を過ごせたのは、私が一人ではなかったからです。

「娘」「姉」「友達」が「障がい者だ」と指を指されて笑われることもあります。

それでもずっと「対等な立場で」そばにいてくれた人が本当にたくさんいます。

 

きっとやり場の無い怒り、不安に襲われていたのは、障害のある私だけではなかったはずです。

それでもずっと、私のそばには支えてくれる人たちで溢れていました。

父から「私が産まれた日の夜の話」を聞いて、これらのことに気がつくことができました。

『私は一人じゃない』そのことを心から理解できたからこそ、「障がい者として大人になっていく」苦しさから抜け出せ、今まで周囲に支えられつつも頑張ってこれたのだと思います。

 

大学を卒業し、地元を離れることになった日、母から手紙を貰いました。

「二人三脚でこれまで頑張ってきて、本当に楽しかったよ。お母さんを親にしてくれてありがとう」

 

終わり

率直な感情を書いたため、乱文になってしまいました。(そのうち前編と併せてリライトします

こんなに乱雑な長文を、ここまでお読みいただいた方、本当にありがとうございます。

 

冒頭でも記載しましたが、あくまでもこの内容は私個人の経験と考えです。

障がい者全員がこのような感情で暮らしているわけではありません。

ある一人の人間の「一例」として、ご理解ください。

また、家族やその他の方々に対する誹謗中傷はお控えください。

なんとなく照れくさくて、家族には直接当時の話を聞いていません。私の推察込みです。

 

最後に、私は家族が世界一大好きで、友人たちが本当に宝物で、ずっと真正面から向き合い続けてくれた母を世界で一番尊敬しています。

障がい
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